柳美里『JR上野駅』

 

JR上野駅公園口 (河出文庫)

JR上野駅公園口 (河出文庫)

 

 

読み終えてから、なぜか「所有」「私有」の関係について考えていた。

主人公(森カズ)が昭和天皇を見かけた昭和22年8月5日は、厳密には戦後の空間であるとはいえ、世代的にも、体感的にも、まだ「日本国民(臣民)は天皇の所有物である」という感覚が強かっただろう。GHQによって新たに導入された象徴天皇制のもと、名目上は象徴天皇であったとしても、実際の天皇と国民との関係は「臣民を所有する君主」と「君主に奉仕する臣民」であった。そうした感覚の強い人々にとって「天皇を見る」とは「天皇のご尊顔を拝す行為」であり、天皇の存在を再確認しつつ、自分たち臣民の所有者である天皇に敬意を表する唯一の機会となる。

主人公が二回目に天皇を見かけたのは2006年(平成18年)11月20日、五度目の「山狩り」のときだ。先代の天皇(現在の上皇陛下)は、しかし、昭和22年8月の天皇とは異なり「臣民の所有者」ではなくなっている。1947年に施行された日本国憲法によって、主人公は日本という国の主権者の一人になり、天皇とは「国民の総意によって日本国・日本国民統合の象徴」と位置づけられた。第二次世界大戦の敗戦から61年経過した上野恩賜公園という名の戦後空間において、主人公と天皇との関係は「天皇を所有する国民」と「国民に奉仕する天皇」として、名実ともに逆転している。

作中では言及されないが、主人公と先代の天皇に共通している点はもう一つある。二人とも自分名義の土地や不動産に住んでいないことだ。主人公は国(都)の管理下にある上野下賜公園で暮らしているし、先代天皇は国(政府)の管理下にある皇居(皇室用財産)で暮らしている。二人は家賃も払っていないし、その土地・不動産の管理者に「出て行け」と言われたら出ていくしかないし、管理者がルールを変更したら、その新たなルールに従ってその場所(上野恩賜公園・皇居)に住むしかない。(もっとも、天皇の場合は国民全体を巻き込んで、法律まで変えることになるので、そう簡単に皇居から追い出されたりはしないだろうけど。)

本来であれば主人公を所有する君主となったはずの、主人公にとって奉仕する対象であったはずの先代天皇は、いまや上野動物園のパンダのように扱われている。主人公にとって天皇に話しかけるための言葉とは、シゲちゃんが諳んじていたような直訴のための言葉(伏テ望ムラクハ 聖明矜察ヲ垂レ給ハン事ヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ……)であり、「天皇陛下、万歳」であるにもかかわらず、主人公はもはや天皇に奉仕する臣下ではないし、天皇も主人公を所有する君主ではない。

いまは、自分の息子を「浩宮徳仁親王と同じ日に生まれたから、浩の一字をいただき、浩一と名付け」た主人公の目に、国民との主従関係が逆転した天皇という存在はどのように映ったのだろう、と考えている。